ゴシック/フラクタル/放浪息子

GOSICK・9話。デパートの怪異の巻。ははあ、こんな時代でもデパートってあんねんなあ、とか調べたら19世紀半ば辺りからデケてるらしい。そんでもまだお上流なお人だけのものだったんだろうなとは思いますがね。その辺の、今とは違う時代ならではの雰囲気やらネタやらがもっと描かれてたら面白かったけど。


折悪しく人間違いされて秘密の部屋に迷い込み、たまたま誰にも見咎められず宝石を手にし、うっかりエレベータで地下まで行ってしまったら、偶然囚われの少女を発見した…とまあ、ちょっとどーかなーって程のご都合展開に見えてしまう。この辺も原作小説で読んだなら、ある程度は緩和される欠点なのだろうか。古き佳き時代のミステリモノっぽい体裁ですよ、と言われりゃそうなのかなとか思ったりもするけどね。


この作品もう一方の存在意義たるヴィクトリカさんは、毎度ながらチカラ入ったかわいらしさでよろしい。東洋のキモノもらって音痴な歌を歌いつつ寝床に帰るシーンはなんかもう、微笑ましいにも程がある。てかちゃんと別に寝室/離れがあったのね。何となくあの図書館に住み着いてんのかと思ってた。


フラクタル・7話。用しに出かけたら調子悪うなって行き倒れのネッサとクレイン。気がつけばそこはザナドゥ、歓楽と饗宴の街でした…という話。かたやこの退廃的ザナドゥ、こなた牧歌的な自然コミュニティ、という対極的な「理想郷」を見せ、どっちも胡散臭ェなーと思わせる描写をしている。そして実は同じ事象の裏表でしたよというオチも意表突かれたな。また、ラスト近辺の畳み掛けるようなイヴェントの連鎖も勢いがあって引き込まれたりした。


しかしこうなると「別に物理的現実世界に仮想テクスチャをレイヤする方式じゃなくてもいいんじゃね?」とは思うな。わざわざ土台としてのザナドゥ建築物なんか用意する手間考えるとねー。まァフラクタルシステムが「そういうもの」だからっちゃそうだし、システムがダウンしたときのザナドゥ廃墟の絵が必要だってのも判るけれど。あと「カネが稼げないと追ん出される」ってのはエエとして、ザナドゥにおける経済/インフラ構造ってどーなってんのかなーとか。カネって意味あんのかなーとか。ま、いろいろ設定はあるんでしょうけれど。


作監に伊東伸高、原画に宮沢康紀の名前アリ。あまり作画にガッチリとした統制をかけてくるタイプの作品じゃないが、今回も割と自由に絵作りされてておもろかったな。クレインさんの寝床上での細かいしぐさがよし、クライマックスの情報爆発シーンのエフェクトが妙に有機的でよし、急におっそろしい姿になるメガネおっさんの絵もよし。ミーガンさんの過剰なちちも当然よし。…しかしミーガンさんって愛生さんだったのな。ロール見るまで気付きませんでしたよ。


放浪息子・7話。女の子になりたい男の子の前に立ちはだかる強大な敵、そいつは時間であり第二次性徴でありおっさん化…はもうちょっと先か。とりあえずニキビを気にするお年頃のにとりさんである。んでまあ、そういう体の変化をメインのお話として進めるんかなと思ったらいきなしアンナさんとつきあってる、っちう要素が出てきた。いやその、まこっちゃんじゃないが「そんな重要なことを」てな気分っすよええ。にとりん、おぼこい顔してやりよんなあ。


つきあってるとは言い条、にとりさんとアンナさんのその関係はいたってアッサリとしたものであり、所謂まあ…男と女が付き合ってる、っちう肉体性とは程遠いものである。多分これ、にとりさんが男性であることをお互いに意識してないっちうこっちゃろな。恋人というよりは友人、そういう関係に「しておきたい」のでしょう。…その上で上記の変化してゆくにとりんのエピソードを考えると、いつまでもそういうワケにもいかないだろうな、てな予測は立つけれど、ね。


「二人の関係を聞いたよしのさんがそのことをついさおりさんに喋ってしまう」という心情の紡ぎ方が繊細やなあ。よしのさんから見た対にとりん、対さおりんの関係性の微妙な引っぱり合いから出てきたこの言動。それがさおりさんの不登校に結びつく…という状況の転がし方も上手いね。細かい。


あと、にとりんから告白されたアンナさんの反応がおもろかった。好きですと言われて「それで?」か…。好きですと付き合ってくださいは別次元なのねえ。確かにまあモデルさんでもあるし、他者から好かれることは割と普通のことなんでしょうな。