耳嚢

●学生時分に買った、根岸鎮衛耳嚢」を読み返している。怪談っぽい雰囲気の類似名書籍が出たりしたので誤解されるかもしれんが、これ自体にはあんまり怪談や恐怖譚っぽい要素は実はそれほど多くない。基本的にはお奉行さんが職場やなんやで耳にした、どうでもいいようなエピソードの集合体である。随筆というには思想性が薄く、歴史的資料とするには信憑性が怪しい、そんな本。でも何だね、こういった気負いのない「ただの言葉」ってのが実はおもろいのよね。ははあ当時のこの階級だとこれが普通なんだとか、この辺は今も昔も変わらんなあとか、そういう興味は満たされる。

内容で多いのは街のちょっとしたエピソード。どこぞの商人がこういう幸運にて得をした、あちらの武士が因果応報でひどい目に遭った、とか。それに加えて妖怪とか幽霊のような怪しげな話。中には山本(三本)五郎左衛門の話が出てきたりして、その手の人には興味深い話も多い。んでちょこちょこあるのがおまじないの類、こうすればイボが取れるとか疱瘡が治るとか。鎮衛は後年水腫に悩まされてたようで、それがらみのまじないが複数あったりする。そして将軍様などお偉いさんのご立派な挿話がそこそこ。あとは種々雑多。

ちょっとした注釈も付いてるのだが、それでもちょっと長いエピソードになると我が古文の能力欠如、話を追っかけるのに苦労したりもする。でもまあ長くて数ページ、短ければ一二行程度のものなので、だらだら読む分には飽きも来なくていい暇つぶしになる。中には結構ロックな話もあったりね。ある爺さんが「ワシ若い頃から大概のバカはやってきたが、そういや男色は未経験だったなあ。死ぬまでにいっぺん経験しとかな」と思って張形買ってきて、縁側で試してみようとしたら足腰弱ってたので張形の上に尻餅ついちゃってモロ挿入、そのまま「わつといふて気絶なしける」。家中大騒ぎで介抱したけどどうにも言い訳に困りましてなー、とかね。お奉行様が一族のために残す文章がこれですよ。かっちょいいよね。

当時気付かなんだがこの根岸肥前守、鹿政談に出てくるお奉行様だったんだな。なるほどこういう著作でも残してるなら朴念仁の堅物とは思えない。ま、大岡や遠山とは一味違う目新しさはあるかもしれん。付録の「耳嚢副言」とか見ても、当時から柔軟で磊落なおもろいじいさん、ってな評価だったらしいからねえ。