底抜け脱線自慢

●例えば病院の待合室の爺さん婆さんたち、あるいは会社のおっさんども。彼らが寄り集まれば決まって繰り広げられるのは、この臓器が悪いだのあそこの関節が痛いだの、つまりはいわゆる病気自慢大会である。まったくしょうもない、生産性のないうっとうしい、あんな会話何が自慢になるものかばかばかしい。…と、思っていたのだよ。


ごめんワシ間違ってた。おっさんになってやっと判るに至った。あれ自慢なんかじゃないのよね。トシとって既に若いころの生命力もなく、体の不具合や故障が不可逆に…何かアカンなったらもうその箇所は回復しない可能性。あるいは可能性ではなく事実。それは単純に言って恐怖以外の何物でもない。そんなものが自慢の種になるものか。


つまりあれは、そんな自分の漠然とした抽象的な/厳然とある具体的な「恐怖」を外部化し言語化することで、少しでも和らげようとする行為だったのだ。純粋な恐怖たる自分の病気を他者に示し、わあすごいね大変だったねと反応してもらうことでそれはいくらか陳腐な日常性を帯びる。そうして心の安寧を保つ行為だったのだ。試験当日の学生が言う「いやー俺全然勉強してなくてさー」という定型台詞にも似た精神的予防措置だったのだ。そうだったのだ…。


●ところでワシ最近健康診断で尿酸値が高くてさー。肝臓の数値も芳しくなくてさー。いやあ参ったよゲハハハハ。