はじまりの文

●この日記のちょっとした整理をしてて、そういやここのスタート時になんかかんかそれっぽいことを書いたりしなかったなあ、と気付く。みくの方にはスタート時に「始まるよ」文章書いたんだよね。てことでとりあえずまあ、遅ればせにも程があるこのタイミングで前書きっぽいものをコピペしておこう。もう五六年も前に書いたものだから、今のワタシの是とする文章からはちと離れちゃってんだけど…まあ、編集ナシでそのまま置く。以降、ムダに長いので特に読む必要は無い。自分自身への覚え書きみたいなもんである。


●17世紀フランス。ピエール・ド・フェルマーという法律家兼アマチュア数学者がいて、彼はディオファントス著「算術」の余白に色々いたずら書きを残した。のちの数学の発展に大きな影響を与えたその書き込みの一つに、ある数式(n≧3である整数nに対し、x^n+y^n=z^nを満たす自然数の組x,y,zは存在しない)に関して「私はこのことの驚くべき証明を発見したが、この余白はそれを書くには狭すぎる」と述べたものがあるのは有名である。爾来この問題は「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、350年にわたって世の数学者や好事家たちを悩ませ続けてきた。全く人騒がせなおっさんである。


しかし、これは名文である。「俺は解けたぞ」というプライドと「お前らには解けるかな?」という挑発性、更にその問題の一見した判りやすさも相まって、後世の有象無象が猫まっしぐらに飛びつくのも頷けるナイスコピーだ。限定された条件が逆説的な飛躍性を生むことは俳句や韻律詩に明らかだが、この一文もそのデンであろう。フェルマーの本にもっと余白があったりしたら、却ってイイカゲンな証明モドキが残ってたりして、ここまで数学界に有益な結果を生まなかったやも知れぬ。


さて、ここは「広すぎる余白」である。一人の微妙に脳足りんな男が、足りないシナプスをだらだらと使って、日々益体もない思考を垂れ流す。それを粋に瀟洒にコンパクトにまとめでもすればまた妙な価値が出るのかも知れぬが、所詮脳足りんな上に余白もバカ広いのでまとめなんぞできようハズもない。まあ、自由を与えられたすっとこどっこいがどんなアホウな振る舞いをしでかすか、という飼料、いや資料にはなるかもしれない。


悪いことに、往来で大の字になって寝転んだりするバカ行為って、やってる方はすこぶる楽しいので始末におえない。ああ、楽しいなあ。


フェルマーの最終定理は1995年、イギリスのワイルズによって最終的な証明を与えられた。その証明は、一人の人間が短い一生を尽くして何とかなるような代物ではなく、多くの人々の絶え間ない研究の積み重ねによってようやっとたどり着けたものであった。人騒がせなおっさんの小さな余白は、それに挑んで打ち破れた者たちの死屍累々たる歴史と、その過程から出てきた豊穣なる数学的世界を生み、…そしてそれは今も広がりつづけている。


広大な世界へつながる扉は往々にして狭いものなのだ。だから人よ、よき人生を歩まんとするならば言の葉は簡潔を心がけよ、ゆめゆめここを見習うべからず。…ああ、楽しいなあ。