マルキさんとザッヘルさん

●本当に内容の無い話なので、ムダの嫌いな方は読まぬように。


●「サドってギャグにしにくいなあ」という話になったのである。大学でよろよろしてる野郎どもと話している時に、だ。


駄洒落やヘボギャグの材料としてのマゾは、その音価が「魔女」と似ていることもあって色々と定番のギャグがある。奥様はマゾとかマゾの宅急便とか。そのデンで言うとサドだって駄洒落は簡単に出来るが、何故かマゾほどギャグとしてのパンチ力が強くない。何故か。


「奥様はサマンサ、旦那様はダーリン。ごく普通の二人はごく普通に恋をしてごく普通に結婚しました。でもただ一つ違っていたのは、奥様はマゾだったのです」。定番であろう? こっからいくらでもバカネタに発展できるであろう? しかしこれがサドであったらどうか。仮にこの文章がサドでも駄洒落として成立すると仮定しても、どうもこっから広げにくい、って感じがしないだろうか。「ところが、奥様はサドだったのです」。どう? ねえどう? …あまり共感してない目つきだな。


まいいや、ワシらの感性で勝手に続ける。要するに…ダウンタウンという典型を持ち出すまでもなく、マゾはボケでサドはツッコミなのである。マゾヒズムってのは、演繹的に物事が発展するキッカケという性質を持つ。それは通常のパターンからの逸脱であり、そしてその逸脱はサディズムによって止められるまで発展を続ける。


だってそうでしょう、マゾってのはサドの人(それが特定か不特定かに関わらず)の嗜虐心を喚起しなければならないのだから。ただ普通に居るのでは何もしてもらえない可能性がある。故に、あの手この手で独創的な非日常性を創出しなければならない。


そしてサドは、そこに発現したイジメ所に対して攻撃を加える。状況の進行を止めて解題する。無論イジメ方にも様々なバリエーションはあるだろうが、基本的には単純で力強いものが良い。サド開始→マゾ結論、のサイクルにおいて結論に凝りすぎては本末転倒である。故に「サドである」というギャグはあまり想像喚起力の余地が大きくない。


更にもう一つの要素がある。上記の展開でわかるとおり、サドは相手無しでは意味を成さないのである。マゾはスタート地点であり、ほっとかれようが何しようが一人でボケ倒すことが出来るが、サド単体から何らかの発展をさせるのは非常に難しい。相手あってこそのサドなのである。単体では「ただの乱暴者」であり、そこにギャグは存在しにくい。


サドの駄洒落定番としては「佐渡」があるだろうか。しかし「サドが島」にしても「サド金山」にしても、「ああサディストだらけの場所なんだろうなあ」って笑い以上にはならない。ベクトルが単純で予測不可能性が少なく、またサドだけではどうも発展性が少ないからである。


ボケる者よ、マゾヒズムを心に置き発展を心がけるべし。ツッコむ者よ、サディズムもて強く判りやすく解題せよ。


●とまあ、そういうことを鼎談しつつ時間は過ぎていったのである。終わり。貴方の時間を無駄にしてことに対してちっとも謝るつもりはない。だからもっと汚い言葉を浴びせて浴びせて!


…でも、「近藤サド」って言われたのにはちょっと笑ってしまったんだよなあ。