FLAG

●FLAG最終話。エピローグ、そして赤城の「けじめ」の話。死線と弾幕をかいくぐってカメラを構えつづけてきた白州さんは、しかしあっけなく退場してしまう。ドラマチックでもなくダイイングメッセージもなく、ただきな臭い裏話とメモリカードを残すのみ。それでも戦場写真家たちは見続けねばならない。目撃し、撮影し、今を切り取って過去とすること。彼らを動かしているのはそういった義務感と退場した命の重みである。…最後の最後に画面に映る、破壊された白州のカメラが見つづけてきたモノ。赤城はそのファイルに名前を付ける。「FLAG」と。


今はもう居ない人の声が、保存されたデータによって時間差で届く、というネタはやっぱ効きますね。画像の中のその人がナチュラルであればあるほど、その喪失感は強い。そういう意味でも田中麗奈の本領が発揮されていた最終話だったと思う。うん、オープンカフェで赤城と話してるシーンの白州の演技の自然さが素晴らしかった。「えー、センパイ心配してくれたんですか?」の台詞。あれは千両。


白州が「特典映像」を見てるとき、最後んとこだけ一瞬みんなの音声がクリアになるんだよな。多分これはホンマの音に加え、白州さんの心による補完がかかったってことなんでしょう。この時白州はあのデロイア7(違う)と再度一緒になれたのだな。


総評。誰でもいっぺんは考えるであろう「記録された映像データで作品全てを構成する」というネタ。それをホンマにやっちゃったのがまずスゲエよね。その要素と主題が呼応しているもの快感であった。とにかくまあ、地味でケレン味が希薄な「高橋的小説世界」をそのまんまアニメに持ってきたというこの特徴は、視聴側をかなりガッツリと選別しちゃうのはしょっがねーよな。アニメ見るのに普段は使わない「ドキュメンタリ回路」を活性化せんならんワケだし。


カメラ越しにつづられていく風景、ドキュメンタリに付随する思考、カメラの前に立つ人が必然的にまとう微妙な「演技」までもすくい取ってしまう記録映像。何か事象を「見る」ということへの原初的快感と言えるのかも知れぬ。…完璧超人な作品ではないかも知れないが、そのアンバランスで極端なとこも含めて、この作品にとって必要な要素となっている。そんな印象を受けた作品でした。誠実でマジで「空気読めてない」作品。その空気読めなさが最高なんでありますけどね。ええ。


ああ、あとあのOP。戦場写真と家族写真を交互に提示するというこれまたベタな演出なんですけど、両方ともやたらにリアルなんだよなあ。人狼のアバンでも似たようなネタはあったけど、こっちの方が遥かに「現実の切片」としてソレっぽかった。多分元ネタ写真はあるんでしょうね。うーん、やっぱホンマに写真やってる人でないと判らんディテイルとか多そうだな。


らき☆すた19話。「全てのガンダムをリアルタイムで見てきた」っちうか、そもアナタはエルガイムだよね、なAパートと、ひよりさんをメインのメインにガッツリ据えたBパートでした。「腐」の部分は縁が無いのでなるほどなるほどほうほうと思って見てましたが、落描いたりする際の小ネタはなんかエエ感じに共感できてしまったので困りました。顔描いてると表情に出るよね。


ガンダムギャグは…うーん、伏字ネタがあんまし笑いに繋がってないのが残念ではあるが、まあ、これはヤることに意義があるってことかしら。あと、巨大化したいとこさんの元ネタは「妖怪巨大女」*1でしょうか。よう判らんが。