夢の話は誰も聞かない

●夢を見る。山奥を無理やり切り開いて造成したような商店街があり、峻険な地形のおかげでやたらと勾配のきつい坂道の両脇に店が立ち並ぶ。周囲は森や林で人里はなれた立地なのに、なぜかこの商店街は盛況で人通りも絶えない。自分は友人と二人で坂道を下りながら日用雑貨や食料品の店を見て回る。坂を下りきって左に曲がると丘を回りこむように道が続き、その一帯にはみやげ物屋のような店が並ぶ。しばらく行くと休息所のような仮設テントがあり、折りたたみの椅子と机、雑誌やゲームが置いてあって数人が談笑している。ブラウン管の古臭いテレビにはスーファミが繋いであり、バイソンVSサガットストII画面がポーズ状態で映っている。ゲーム主はコントローラ握ったまま眠りこけているイガグリ頭の小学生である。そんな状況を見つつ、自分は横の友人に、この時代のゲームは今のそれには無い妙な味があったな、と言う。友人はさもありなんという風情で「作風や個性ってのは個人に帰するものだから、小規模なプロジェクトであればあるほどそれを発揮しやすいのだ。今のゲームのように大規模になると多人数が関与することになり、どうしても成果物の印象が平均化される。だからスーファミと言わず、ファミコン等のようなものの方が作家性を感じやすいのだ」と言う。なるほど一理あるなあと感心するが、思い返してみると頭に浮かぶのは作家性以前のしょーもないファミコンゲームばかりである。はてこれはおかしいではないか、そこらへんどうなんですかと聞き返そうと思ったら目が覚めた。

この「友人」は実在の人物だが、本来こんな感じのことを言うようなキャラクタではない。実際のところ夢の中における自分自身の代弁者がこの友人のガワを借りて出てきたという感じがする。上記の「しょーもないファミコンゲーム」は具体的なゲームタイトルは出てこず、ぼんやりとした概念的な「モノ」であった。夢の脚本・監督役である「自分」の結論ありきのガジェットだったのだろう。