氷菓/坂道のアポロン/つり球

氷菓・11話。文化祭ミステリ映画と女帝・解決編…といっていいものかどうか。古典部の三人は奉太郎の提示した結論を認めはするが、しかしそれでいいのだろうかと疑問を呈する。その結論は脚本の本郷のためのものか、それとも自分のものなのか。そこに至って奉太郎さんは気づくのである。ひょっとして自分は女帝に体よく使われただけ、なのではあるまいか? 

てことで、状況の焦点は映画脚本のデキではなく、そもそも何故映画脚本を考えなければならなかったのか? にあったという話。奉太郎の出した脚本がいわばメタミステリであったのと同様に、このお話自体もメタレヴェルの所に本質がある。古典部員の中でただ一人、奉太郎だけがその本質に気付けなかった…と言うよりは、主に女帝によって「気付けない地点」=「女帝の思惑にとって好都合な地点」にまで誘導され、そこで一所懸命楽しげに調子に乗って非省エネ的に作業するに至った、っちうことだろう。

これってつまり、古典部三人が居なければ、ただ奉太郎だけに話が行ってて彼一人浮かれていれば「表面上は」丸く収まっていた状況ではあろうね。女帝の影響範囲外に居た三人が気付いてしまったことで、古典部皆さん揃ってほろ苦い思いを噛みしめることとなり、ついでに女帝自身もちょいと気まずいことになっちゃいましたよ、と。ラスト近辺でのチャットシーン、女帝さんの相手はやっぱし奉太郎姉でしょうかね。地球の裏側からでもお見通し、って安楽椅子探偵にしても大概やなあ。

さァて…ふうむ。これはなかなか凝った話だったなあ。相変わらず誰一人死にもしなければ傷つきもしない(映画の中や心の中を除く)日常ミステリなのに、視聴後感にはそこそこ重たいモノが残るという…。そうね、奉太郎さんは「力」のタロットの通り、おんなのひとに鼻面を引っ張りまわされることを楽しむ性癖を得るべきなのかもしれない。少なくとも省エネにはなりますぜ?

坂道のアポロン・最終話。千太郎のいない学校生活、そして卒業。その合間々々にボンは相変わらずめんどくさい行動に出てしまうのであって困りものである。思わずりっちゃんを押し倒しちゃうのは青春のリビドーでしょうがない(?)かもしれんが、その後で「千太郎が居なくなってよかった」は拙かった。「失くしてしまったものを求めるが故に殊更拒絶する」っちうボンの気持ちも判らんでもないが、流石にねえ。

時はいきなり流れて8年後、なんかかんかの曲折あってボンと千太郎、りっちゃんは再会する。8年間の時間的距離とわだかまりを、理屈抜きで一気に縮めるのはやっぱしセッションである。…なんかこう、ものすごく省略されてるのは原作未見のワシでもよう判るが、このすっ飛ばしもこれはこれで悪くないなと思った。今まで方言指導のみでクレジットされてた宝亀克寿のおっさん、ここでやっとこ一言だけ喋られました。ようございました。

今回個人的に妙に印象的だったのは、窓ですな。千太郎の居ない屋上で星児さんと相対するボンのシーン、画面半分右側の星児さんの方にだけ窓ガラスを隔てた状態になってて、彼我のなんとはなしな距離感が出てたり。その他にもボンとりっちゃんのキスが逆光で浮かび上がる夕暮れの窓、ボンの告白をドアガラス隔てて聞き耳立ててるおやっさんのいいポーズ演技、発車する電車のフォローに合わせてちらと見え残るおやっさんの手、…そして電車最後尾の窓から見えるりっちゃんの姿。それまでの回でもあったテーマなのかどうか判らんが、彼我のキャラクタを結びあわせる「窓」という要素はなるほど、この作品らしいギミックだなとか思ったりした。

●総評。アフロじゃない方のナベシン菅野よう子が再タッグ! 1960年代の長崎にて、ジャズと恋と友情とでぶきっちょに生きて青春してるやつらどものお話である。…ワシはビバップ大好きだけど、多分渡辺監督の本来の作風はこっちの方なんじゃないかっちう気がするな。ま、それはさておき。

設定的にも見た目にも判りやすいハデさの無いお話であり、そうなると総体としての、全方位的なデキの良さがまず求められてしまものでしてね。このアニメには大きく目を引く要素として「ジャズの演奏シーン」ってのがあり、確かにそれは音楽・作画・演出のどれもがとんでもなくレベルが高く、作品全体の要となるパーツなのは間違いない。でも、だからってその他の部分のレベルが低いワケじゃない、ってのは視聴した人がご存知の通り。時に繊細に時に大胆に場面を構築してゆくあの手腕は、流石渡辺監督だなあと思いました。

聞けば原作は結構な分量で、アニメ化に際して端折った部分は多いらしい。思い返してみれば確かに、なんかすげえサクサクと話が進むなあって印象の回はちょくちょくあった。削るべき要素を削った上で、必要な所にはキッチリと「間」を置くというディレクションの力は感じられてて「ああ、苦心してはんな」とか思ったりもしたけれど、それでもいくつかの回はちょっとせせこましい感じが否めなかったりもした。…うーん、どうだろうねえ、2クールではちょっとダレるだろうし、でもまあこの話数がベターかなあ。もう2〜3話でもあったら余裕も出来ただろうか? さてね。

うん、実にノイタミナらしい、丁寧で上質なアニメだったと思いますよ。ワシの好みからすればもうちょっとガサツな味わいがあった方が好きだが、ってそんなんただのイチャモンである。楽しませていただきました。

…あー、いっこだけ。文化祭の場つなぎセッションシーン、演奏してるボンと千太郎の作画も然りながら、そこに駆けつけてくる生徒たちの作画がものすげえナチュラルな動きになってたのが未だに強烈な印象に残ってます。本題とは離れるが、あの作画だけで一本アニメ作ってくれんかな。ワシ大喜びするのですが。どうでもいいっすね。じゃ!

つり球・最終話。絶体絶命の状況下、ユキさんは考えて考えて閃くのである。友なるものは二人で一人、釣りを助ける者とルアーそのもの。てことで、ハルさんをルアーにしてあの龍を釣り上げるんじゃーい! っちうお話。最後まであまり薄暗くならず、たかが釣りされど釣りでこんなけ大仰なアクションクライマックスを作り上げるってのは…まあ、ちょっと強引なとこはあったけど…大したものではあるな、と思う。

そうね、王子の家族間の問題もケイトばあちゃんの体調も、とりあえずはスッキリとした結末となっててよろしいことだ。この人を喰ったような開放的なお話のシメとして「ご清聴ありがとうございました」というのはなかなか相性のよい台詞ですな。

途中、ルアーとして飛んでったハルさんの衣服がどんどんとすっ飛んでゆくシーンは妙なえろちっくさ…が出現しようとして出てこなかった、そんな妙な雰囲気があってワシは好き。てっきり一旦素っ裸になって、そこから魚のような異形を経てルアーの形にでもなるのかと思ったけど。…あと、同級生の巫女娘さん、ヒロインっぽく登場した割には最後まで影薄かったな! もうちょっとメインキャラたちに絡ませてあげたら良かったのに!

●総評。中村健治監督によるセイブ・ジ・アース釣りアニメ。中村監督の作品はワシちょっと苦手なところが以前はあったのだが(変化球なのは判るが変化が甘いか、あるいは変化しかないじゃんか、っちう印象がね)、前作「C」からこっちは結構慣れたのかフツーに楽しんでいる。てことで本作も楽しみにしてたのであり、うん、その期待はキッチリと成就されたかな、ってところである。

80年代イラスト風の画面設計や、橋本敬史の「エヘクトアニメーション」によるダイナミックな動き、辺りが今回の変化球だろうか。奇抜な見た目で普遍的な物語をやるってのが監督の資質の一つであるような気がするのだが、まずその「奇抜」部分は充分なインパクトがあってツカミはばっちりではあろう。逆にパッと見ィのハードルが高いと言えんこともないが、まあそれはお好みで。

そう。お話自体の骨子と根幹は普遍的な物語なのだ。主人公4人組はみな、パターンは異なるものの他者や世界との関わり方において困難を抱えている人間ばかりである。釣りを通じて彼らは他者と交流するトバ口を得て、そこから外の世界と関わっていくことになる。んでもって最終的にやることが、ほかならぬその「世界」を救うことである、っちうのが本作らしいネタ。なんで釣りが世界を救うねん! っちうね。