たまゆら

たまゆら〜hitotose〜・最終話。私たち展と初日の出、あとさよみおねーさんの(余計な)お楽しみイヴェント、でシメである。私たち展の盛り上がりと終了をグイと押し出した感動のクライマックス…という風にはあんまりならず、新年の清冽な空気感を挟んでフウさんの気付きでオチをつける、という落ち着いた構造がなんかこの作品らしいなとは思った。


さよみさんがふと漏らす「誰の目にもまぶしい」人たちであるフウさんたち四人の描写。ワシらおっさん年齢の視座から見れば疑いようもなく美しい若さと純粋さであるが、そう感じたさよみさん(=ワシら)と対照的にフウさんたち四人には自覚がない。ま、当然のことではあるのだが、唯一フウさんの…父のファインダー越しのフウさんの目だけは、失われてゆく瞬間々々のよすが、その美しさにちょいとだけ気付くのである。そう、思い返してみれば、今までの話で語られてきた「失われた美しさ」の意外な多さよ。この手の作品にしては結構高年齢のキャラが多かったのは、ひょっとして偶然ではないのかもしれない。


…とまあ、そんな感想もともかく、コウちゃんとまおんさんによる「たけのこのこちゃん」が気になって仕方がないのです。良い香りとケーキに釣られて顔を出し、オホーツクにて活躍し、妄想豊かな孟宗竹が出てきて、最後喰われてしまうのこちゃん。…ううむ、見たい。あと「のこのこー!」と出てくるコウちゃんはかわいったらしいにも程があって困る。ああ困るね!


●総評。竹原を舞台に少女四人がぽわぽわうろうろしてお話を形成してゆく、っちういかにも佐藤順一監督らしい作品である。実際キャスティングは監督の過去作からのおなじみさんが結構多い。ワシはARIA組が多いなーとか思ってたけど、どうやらうみものがたりからの継続キャストも多いらしい。ワシ見てないのでよく知らんですけども。


さて。佐藤監督といえば少女と感動である。「感動」ちうても監督の場合はその繊細さも含め、非常に「巧み」な作風なんですよな。情念をぶつけてくる嵐のような感動ではなく、何でもないような日常の積層のなかからふと、露頭のように目に見えてくる静かな情感。老練ともいえるその手腕は何というか、見てるこっちが上手いこと手のひらの上で転がされているような感覚を受ける。職人肌のイメージですわ。


本作はその資質が遺憾なく発揮された典型作品といえましょうかね。表面的には和やかでほんわかした雰囲気ながら、その土台部分には周到に「人生のデコボコ」が配置されており、そのアンジュレーションが表層部分に達したときにドラマが起こる。あからさまに語ることはそれほどないが、各キャラ…特に大人にあたるサブキャラにはさまざまな「デコボコ」がほの見える。まず主人公のフウさんにおいてからが父親の形見のカメラというちょっと重い代物を常に携帯しておるわけでしてね。その上でちゃんと「暖かで緩やかな話」の範囲に収めるバランス感覚は流石である。


…ただまあ、ARIAとかと比べると、なまじその舞台がかなりリアルなだけに、人物造形の類型性/キャッチーさが目立ってたトコはあるかもしれない。ごく一部の人だけベタベタな広島弁喋ってるとか、そういうとこもね。キャラ立てとしてアリな手だとは思うけど、ちょっと浮いてたかな、とか。


とまれ、何か大事件やらが発生するでもなく、お嬢さんたちのふわりとした感覚の日常性をエンタテイメントとして提供する、っちう職人技を毎週見られるってのはゼエタクな楽しさではあった。あんましワシの守備範囲内の作品とはいえないかもしれないが、楽しく見させていただきましたよ。…あと、ももねこ様だけでスピンオフとかおまけ作品とか作ってもエエかもしれない。あのいもむしみたいな歩き方はもっと堪能してみたい。意外と俗っぽいし。