翻訳蒟蒻問答

●どちらかというと海外SF好きでありそういうジャンルの本をよく…まあ、最近はペースが落ちているが…読む。んで根っから日本の小説を読んだりもするのだが、どうも文体に慣れないなあ、と思うことが多いのだよな。


翻訳文体ってのは、それは当然翻訳者のクセやら特徴やらは歴然とあるのだけれど、それでもネイティヴな作品の文体に比べると「あまり翻訳者独自のテイストは出さないように」という方向で構築されているのは間違いないところ。いや、例外もあろうがそれは置いといて。だからたまにフツーの日本小説とか読むと、作者の文体のクセがことさら過剰に、うっとうしく思えてきたりするのですよ。これがエッセイや紀行文など、本人のクセがでて当然っぽいジャンルならばちっとも気にならないんですがねえ、って小説はクセが出て当然ではないってのも何かヘンな理屈だけれど。


翻訳作品ってのは、多かれ少なかれそういったクセを喪失しちゃっているってのは間違いないワケで。いかに翻訳者ががんばろうと、そのまんま文体のキャラクタを持ってくることなんか出来ない相談だしね。そういう欠点のような箇所をわざわざ喜んでるってのは、多分歪んだ嗜好ではあるんだろうなあ。


時々ひどく失礼なことを考える。この小説をいっぺん英訳して、それからまた和訳してくれへんかなあ、そしたら更にワシ好みの作品になるんじゃないかなあ、とかね。…そういう観点からすると、あのAKIRAの再翻訳版ってのはワタシの感性になんとピッタシだったことか。故黒丸尚さんもようあんな仕事請けたよなあ…。