だれも知らない小さな国

●数多ある文学ジャンルの中で、最も「生々しい」のは児童文学じゃねえだろか。いや客観的なこっちゃなくて、その人々々の読書史の中における印象についてですがね。児童文学ってことはガキの頃に読むワケで、想像力豊かな…別の言い方すれば現実と虚構の峻別が曖昧な時分に読んだ本が自我へ与える圧倒加減は、そりゃ大人になってからの読書経験のそれとは比べ物にならんワケで。そこへまた「懐かしさ」てなめんどっちい感情が乗るワケで。…みんなそういう本の一冊や二冊はあるんじゃねえだろか、という。


ワタシにとってのそういう本の一冊が「だれも知らない小さな国」である。佐藤さとる著、村上勉絵。片田舎の町にて主人公の「せいたかさん」が小さな小さな人のコミュニティと出会う話。理知的ながらやさしく温かい文章が、日常をちょいとめくった後ろっかわにある不思議世界のワクワクを伝えてくれる、そんなエエ話なのであります。が。


実はワタシこの作品、読んだ記憶をずっぽしと失ってたのですよね。んで長じてからこの本を見つけて衝撃を受けたワケだ。ああ、ワタシはこの本を知っているッ! そうだ確かにガキの頃読んだのだ。ああ、するとあの出来事もあの風景もあの感情も幼少時のワタシの妄想や白昼夢ではなく、なんとそれは本を読んだ記憶だったのだ! …とねえ。あまりに虚構世界に没入して読書した結果、当時のワタシの自我はこの本とほぼ「癒着」しちゃってたのだな。


読み直したときはそれは不思議な感覚でしたよ。なんせワタシしか知り得ないハズの個人史的経験がこの本の中にずらずら出てくるんですから。自分の存在の一部が外部化したような感覚。そしてその郷愁だのノスタル爺だのという一単語には到底収まらない身のよじれるような圧倒的感情は雪崩をうってワタシに襲いかかる。たーすけてー、こーろさーれるー。何でそんな言い方やねん。


後になって続編などを含めて再度買い揃えたのではありますが、もう素直に読んだり評価したりできねえのですな。テメエの精神記憶の根っこン所と不可分に結びついてるので、感情の溢れ方がちと尋常じゃない。読むたびにああくそ、ああくそ、これはあの時のあの世界だ、もう二度と戻ってこねえハズのあの時代が今ワタシの目の前に。でもこの世界はこれ以上の進展は無く、だって本の世界だからこの形に固定されていて、ああもどかしいやるせない!


…てな本を通勤時に読むもんじゃねえな、という話。仕事にならんわ。


●ま、本に限らずそういう感情はどの事象にも乗っかってきますわな。音楽とかもね。経験した時代はぜんぜん違うハズなのに、ワタシがこの本のBGMみたいに対として記憶してる音楽が「みずうみ」だったりする。「みんなのうた」のヤツ。会いたいのはあなたよりもそばかす気にしてた日のわたし。ああやるせない! 大貫妙子! グリーググリーグ